『リンパと、生きる』 すいかさん
先天性リンパ管腫。左頬・眼窩・鼻腔の奥や口腔など混在型。
——ご自身の疾病についてや経緯を教えてください
先天性リンパ管腫。左頬・眼窩・鼻腔の奥や口腔など混在型。
2歳の時、突然左眼が塞がり顔の左側がパンパンに腫れ、複数の大学病院を回っても「リンパ管腫」という診断、治療法は「切除のみ」。
切除を恐れた両親は「命に関わる局面になってからでもいいし、新しい治療法が見つかるのを待ってもいい。専門でないが私でいいなら我が子と思って診ます。」と言ってくださった眼科医のK先生を頼りました。
幼少期は腫れる度に薬で対処する、の繰り返しでした。幼くてわかっていなかったのだと思いますが痛みもあったようで、よく嘔吐し、自家中毒との診断で入院もしました。
高校生になってから瞼の腫瘍が顕著になり、激痛で動けなくなることが増えました。ちょうどその頃に京都府立医大の荻田医師の硬化療法が発表され、当時通っていた病院の耳鼻科でやってみたいと言われ2回受けましたが、基本的なミスがあり不本意な結果となりました。
大学入学後K先生と相談し荻田先生のもとへ行き、卒業後に1年ほどかけて頬に3回、瞼に1回硬化療法を受けました。
その後就職、結婚・出産を経て、次の硬化療法を相談し始めた矢先に先生がご逝去され積極的治療は頓挫、そのまま現在に至ります。
硬化療法の効果で頬の大きな腫れは幾分小さくなりましたが、30代のある日、眼窩のリンパ管腫の腫脹と痛みが急激に大きくなり、剥き出しで出血した眼の結膜部分のリンパ管腫の切除をしました。
瞼を中心とした左側前〜側頭部の痛みに関しては10代の頃から強弱ありながらも継続中で、切除後にも何度か急激な腫れや痛みで救急に駆け込んだり入院したりしています。その時出逢った麻酔科のH先生により、内服と点滴・ブロック注射を適宜受けて痛みの対応をしています。
——今のお暮らしは…
今は仕事はしていません。仕事を考えるタイミングで悉く前述のようなトラブルに見舞われ、復帰できないままになってます。
痛みが落ち着かず、10代の頃はまだコントロールできていた痛みができなくなってきて、上手に生活と両立させる難しさを感じています。
——幼少期や思春期はどのようにお過ごしになられていましたか?リンパ管疾患とともに生きていくことに葛藤などありましたか?進学や職業選択等において疾患はどのような影響がありましたか?
幼少期から人混みに出ると翌日必ず腫れたので、家にいるか家の周辺で遊んでました。
幼小中高大と全てにおいて休みがちで、幼稚園は半分も通えず、遠足や校外学習も行けないことが多かったです。
リンパ管腫があるから〜(できない・諦める等)という見られ方や言い訳にすることがとにかく嫌でした。休みがち故、役を外されたり、怖いからと体育もしないでと言われたりが悔しくて、何があっても責任は問わないと約束して参加してきました。
診断当時は症例に関する情報が少なく切除以外の治療例も見当たらず、成長過程で何が起こるかは未知、成人までに命を落とす可能性もあるとすべての病院から言われてきており、10代の頃は20歳以降の人生を考えてなかったというのが気持ちや行動の土台にあります。
進学は子どもの頃から通っていた歯科のK先生に「資格を取って自力で生きる力を持ちなさい」とアドバイスを受け、恥ずかしながら初めて20歳以降のことを考えました。将来的に食いっぱぐれのなさそうな医学部か薬学部のうち、体力を考慮して薬学部を受験しました。大学が1番キツかったです。高校の時もギリギリながらも家近くを選んだので凌げたものの休むと単位が取れない。大学は一層厳しくなり必死でした。担任からは下宿を強く勧められましたが、片道2時間半を痛みを抑えながら毎日なんとか通いました。親はもちろん大学の友人達や教授陣にも本当に支えてもらいました。助けがなければ国試も合格できてなかったと断言できます。
——具合が悪くなられる時の注意点やきっかけなどありますか?気をつけられていることなどありましたらお聞かせください
疲れや感染、ぶつけることなどで腫れるので常に気をつけています。
左眼は弱視で右眼優位で物を見ているのもあり、遠近・平衡感覚に乏しく、物を避けきれずぶつかることが多々あります。
また、ストレスや感情の波が大きく揺れても腫れますので、怒りも喜びも過剰にならないようになるべく気をつけてます。そのため気持ちテンション高めを通常にしています。
いまだに自分の限界値を超えて、もう少しいける!などとキャパ以上に無理をして、後で具合が悪くなり反省することもしょっちゅうです。これは生来のものと諦めてます…。
あとは隙あれば横になり身体を休めています。勉強も寝転んでやってました。
——疾患を抱えながらの結婚や出産には様々な葛藤やご苦労があったと思いますがその当時のお気持ちなどお聞かせいただけますか?
結婚が人生設計になかったので今も不思議です。結婚するにあたり反対されればすぐ別れようとオットのご両親に病気のことを話す機会を作ってもらいました。自分で話してダメなら悔いはないと思ったんです。
妊娠出産については、当時、荻田先生からも「自分の知る限りリンパ管腫でも、特に首から上で且つアクティブな病巣がある患者で妊娠出産した人がいない」と言われ、不安はありました。遺伝はないとわかっていても、リンパ管腫だったら?という不安もあり、当時特別だった3D検査も受けました。
2度の妊娠中はリンパの悪化がほぼなく、月経中は調子が悪くなることが多いのでこの病気はホルモンも関係するのかなと思いました。長男はお産が進まず帝王切開になったのですが、術後は腫れまくりました。親子同室が原則でしたが新生児室や詰所にずっと預かってもらいました。退院してもリンパの怠さがいつまでも抜けず、さらに長男は寝ず泣いてばかりの子で、過酷すぎて泣きそうでした。公園デビューなんてとてもできず、長男は実家の両親に育ててもらったようなものです。
4年後に誕生した次男には私も余裕が持てましたが、やはりリンパは安定せず、前述のようにどんどん悪化させていくことになりました。
リンパ管腫で出産して…いい経験ができたと思いますが、やはり体力も疲労もストレスも大きかったです。オットの職種からワンオペだったこともキツかったのだと思います。
20歳より先が見えない…命を恐れてやりたいことを我慢しない、決めたらどんな結果になっても後悔はしない
——ご家族は疾患についてどのように受け止めていらっしゃいますか?
自分のことを事細かに話す事が苦手で、オットへは私から話す事をしていないためどこまで理解してるのか不明です。生き急いでるとはよく言われ、とにかく元気でいて欲しいと言われています。数年前、救急に行くまで我慢してしまった時がありH先生から「ちゃんと見てて」と無茶苦茶怒られていたのが申し訳なく、もう少し伝えるようにしないとと思っています。
子ども達もリンパ管腫は何かなどは理解してませんが、特に長男は具合の悪い時の対処もわかっていて随分と助けてもらってきました。今は次男が家事のほとんどをやってくれてます。あれ?私、なにもしていないのでは…。
——ご両親や兄妹との関係で疾患を抱えていることで感じた思いや印象的な出来事などはありましたか?
親からは強く生きるために、物心つく頃には自分がどんな病気で何がダメなのか、などを自分で理解し説明できるようにと教え込まれていました。
命を恐れてやりたいことを我慢しない、決めたらどんな結果になっても後悔はしないと決めていました。危なすぎてさせたくなかったこともあっただろうに、その気持ちを尊重し続けてくれた両親には感謝しています。
また、歳の離れた兄が2人いますが、ずるいと思うことも、揶揄われることもあったのに、何も言わずいつも黙って私を守ってくれました。2人とも未だに身体を心配して推し活(40年来大好きなアーティストがあり、ライブがあれば遠征もします)には苦言をくれます。
私になにか嫌なことがあれば私以上に怒り狂う人たちです。それがわかってるから早々には言えませんでしたが、耐えなければと思うようなこともないくらいの絶対的な安心感がありました。精神面ですごく支えてきてもらってたのだと改めて思います。
——少しご自身にとってお辛い部分かもしれませんが見た目の問題についてご自身のお考えやもし差し支えなければ体験などをお話しいただけますか?
基本図太く生きてきましたので…。
言葉は悪いですが「そんなこと言う人がバカ」と思い蹴散らすか無視してました。どうすることもできない事で悩んだところで無駄だと思ってたんです。病気を理解してもらおうとかも思い及びませんでした。自分が変わる方が手っ取り早くて楽だったんです。とにかく時間が少ないと思ってたので。
でも、それは今でも変わってないかもしれません。マイノリティに理解をという流れになってますが、当事者としてはなんというか自分事としては捉えきれてません。これまでたくさんの声を聞いてきてますのでこの疾患含め見た目問題については理解して欲しいと強く願っていますが、自分がそこに入ってないというか。あまりそのことに固執して考えなくて長く悩んでも時間の無駄だと短期で終わらせてきてるので…。普通じゃないといえばそうなのですが、これが私の普通で生きてきてるので、他と比べようがなく。見た目とか障がいとか性自認などその人の一部でしかないものを取り立てて揶揄したりせず、単純に誰もが自分として堂々と生きられる世界であるといいなと思ってます。
中高以降はさすがに周りからの嘲笑が気になり髪で隠そうとしたりしましたし、まともに受けると心が折れるので意識的に鈍感でいようとしました。で、やっぱり図太いので、告白してはフラれてましたねぇ…。でもね、それでもいい、というか気にしない方は意外といます。友人達がそうであるように。気持ちが繋がるってやっぱり素敵なことで、これがあるから無謀でも告白しちゃうんです。無碍にするような人を好きにはならないんで、フラれても見た目でという落ち込みはなかったです。
ただ、ママ友作りは人生最大に見た目の問題にぶつかりました。近寄ってすらもらえず。
自分のことはどうにでも考えを変えられますが、子どものことになると…これは本当にキツかったです。そういったことや、幼稚園では体力が続かないだろうと、病気理由の申請を出し保育園へ。保育園のママ世界では奇異の目はほぼなく、世界を変えるって大事だなあと思いました。
中学生になった長男からは参観を控えてと言われました。この機会に改めて何故だったのか聞くと、学校に人を揶揄う生徒が多く私に嫌な思いをさせる可能性があったからだったそうなのです。長男自身が嫌なのかなとずっと思ってたので幼い頃から変わらず優しい息子に感謝しています。
ネットの中をふわふわと彷徨う存在に
——naturallyの管理人の1人であるすいかさんですがここに至るまで様々な活動をしてこられたと思います それらについてのお話や思いをお聞かせいただけますか?
荻田先生と生前に「いつか患者さんの役に立てることを」と約束していたこともあり、ホームページを作ろうとしましたが、何年かけても納得いくものが作れず、mixiでSNSがどんなものか見てブログから始めてみることにしました。
そもそも本当にリンパ管腫の人がどのくらいいるのか?需要あるのか?と思ったんです。
しばらくは何の反応もなかったのですが、他の趣味の出会いが広がるうちに、ポツポツと同じ疾患の方に出会い始めました。そのうちDMでも問い合わせが増えて、もっと寄り添える場所に発展させようと専用コミュニティーを作りました。このブログやコミュニティーを通じて生まれた100人以上のリンパ管疾患の方との出会いは今もお一人お一人大切に心に刻んでいます。
一方ではリンパ管疾患情報ステーションを通じて正確な情報を得られるようになり研究班の先生方がシンポジウムを開いてくださるような疾患になりました。私もシンポジウムでSNSで交流してきたみなさんにお会いし、オフ会を開くようになりました。
ただ、人間関係が広がったなかで自身が否定されるような悲しい思いもしたので、そうした場から一旦線を引きました。しかし、私自身がじっとしていられない大きな出来事が起こってしまい、その出来事に対する自分の気持ちの置きようと行動の有りようを探しました。いろんな人や団体の方に会い、ずっと一緒にいてくれた人や協力いただいてきた方の意見を聞き、小さくやってみる?ホームページ作ってみる?と、東京のおしゃれなカフェでふわっと誕生したのが、naturallyです。
管理人の1人として私が存在しますが、使いたい人がその時々で好きに使っていただいていい場所という設定をしています。ですので、要望や依頼があればできる範囲でお手伝いします。ワクチン接種レポートもアンケートもそのひとつ。要望があり、ご協力いただき記事にさせていただきました。また、しんどい時や誰かの声が聞きたい時話したい時に定期的な音声の場所を置いてみたくて、どの年代も気軽にアカウントが作れるTwitterでスペースを定期的に開いています。
ホームページもスペースも誰も来ないこともあります。でも、それがしあわせじゃないですか?それって、他の発信や病院で満足してたり、藁をも掴む思いをしている人がいないということ。夜の帳が下りてそっと看板に火が灯った場末のスナックのママのイメージの場所なので…ちょうどいいんです。
とりあえず、こんな歳で生きてる人がいる。それが未来につながるなら、よし。くだらないことを喋ってる声を聞いて安心できるなら、よし。
ブログやコミュニティーもゆるゆるでしたが、naturallyはさらにゆるっゆるです。
何かを掲げて何かをしよう!とか、誰かの役に立つために!などそんなおこがましいことは考えておらず「存在だけ」。ネットの世界をふわふわと彷徨おうと思っています。
何もしないと言いながらなのですが、ホームページを持つなら、30年ほど前にリンパ患者のお母様達が作られたホームページの中にあった、症例報告だけは復活させてみたくて。いろんな人がいるんだなと知ったきっかけになったページだったんです。今更かもですが。。。
これが私の最後のやってみたいことです。
もしよろしければみなさんも匿名で、こんなに語らなくてもいいので、疾患の場所とどんな経緯でどんな治療したかを差し障りのないところだけで構いませんのでお聞かせください。ご協力よろしくお願いします!
——今までに出会った医師との印象的なお話などあればお教えいただけますか?
まず眼科のK先生です。言葉の通り、本当に娘のように診てくださいました。エピソードはありすぎて。奥様にも大切にしていただきましたし、今は同じく眼科医の息子さんにお世話になっています。
歯科のK先生は怖くて有名な先生でしたが私には厳しく優しくて。勉強はしなさい、人と比べず自分に胸を張れ、と教えてくださいました。
そして、荻田先生。患者でありながら毎日のようにメールをやりとりし、先生のお考えやお姿に触れ、今もこうでありたいと目指す自分の目標にさせていただいてます。
麻酔科のH先生には多面から見て向き合うことを教えていただきました。
本当にどの先生からも患者というだけでなく、プライベートなことにまで全てにおいて寄り添っていただきました。こうした先生方のおかげで今の私がいます。先生方の寄り添いには足下足元にも及びませんが少しでも近づきたい気持ちをいつも持ち続けています。
みなさんなりの小さな幸せが積もっていく日々でありますように…
記録は、大事!
——これからどんな人生を歩んでいこうと思われますか?
20歳以降の人生はボーナスステージ、あっという間で50年面白おかしく生きてこれました。
ここまで繋いでくださった先生方のお墓参りをしてきたところです。
幼い頃からこんな感じで最近は衰えが半端なく、平均寿命ほどは長く生きられないのかなぁと漠然と感じ粛々と終活しつつ、これまで通りやりたいことを思いっきりやりたいな、と。
痛みのコントロールしつつの仕事復帰がとりあえずの目標です。
こんな歳になっても人の目が気になることもあれば綺麗な人は羨ましいし、痛みもいい加減飽きてます。でもそれなりに毎日楽しいので、いつかの間際に悪くない人生だったと振り返りたいと思っています。
—最後に、この疾患をもつあらゆる年代の仲間へ、親御さんへ、メッセージをお願いします
「病気に負けず強くありなさい。」幼い頃から親にも周りの大人にもよく言われました。今の時代には沿わない考えかもしれませんが、私は何かあるたびに、挫けてたまるか!という気持ちでここまできた気がします。私にとってリンパ管腫は邪魔でしかないですが、なくせないなら一緒に楽しく生きるしかないなと思ってます。
今はSNSもたくさんあり、同じ病気の人も見つけやすくなりました。でもその世界に留まらず、いろんな世界を感じて欲しいと思います。この病気の一つに見た目のことはありますが、奇異や同情の目だけではありません。学校ってすごく狭い世界で、大人になればもっと世界は広くなりますし生きる場所は選べます。
好きなこと、没頭できるものもあると強いです。何も考えず好きだけで埋まる時間は自分を支えます。
幼いころは本が愉しみでした。その中で読んだ、少女ポリアンナの『よかった探し』のように、毎日良かったって思えることをひとつ。どうせなら面白く生きたほうがいい。何かに囚われ辛い時は推し活動に没頭したりとセルフコントロールしながら、みなさんなりの毎日の「小さなしあわせ」が積もっていく日々でありますようお祈りしています。
あと、親御さんに向け、これはあちこちで申し上げていることですが、
記録は宝です。親は老います。記憶はびっくりするくらいに薄れます。私自身無理なので日記をつけろとは言いません。カルテ開示もお願いしにくいとか費用が気になられるでしょう。でも今は病院から診療明細が出ます。そこにはどんな処置をしたか、何の薬を使ったかが明記されています。少なくとも医療者が見ればざっくりとわかります。薬局明細も然りです。捨てないという手間で記録になる優れものです。もし余裕があれば熱が出た、何日くらい腫れた、と書き添え、貯めておくだけで充分です。
お子さまが大人になった時、親亡きあとに、過去を振り返れる物を残してあげてください。
画像コピーもあれば尚良しです。今診てくださってるドクターはその子の一生はみれない…異動もあればいつかはご退職される時がきますので、是非とっておかれることをお勧めします。
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